距離思考
自分の生きる参考になる格闘家、それが自分にとっての青木真也選手に対する思い
先日のYouTubeでも、「プロレス、格闘技の文化」に対して刺さる発言があった
要約すれば、ブームになってはいけない、文化になるようにしたい、という話
昨今のアテンションを求める文化に飽き飽きしてSNSやネットを見なくなった自分には物凄く共感する内容だった
まぁ自分が天邪鬼でみんなが知っているなら自分が知る必要はない、と考えるタチなのもありそうだが
だって他の人が知っているならわざわざ自分の時間を捨ててまで知る必要はないじゃないかと思ってしまう…
その辺りの親和性は一旦横においておくことにしよう
この本には共感できる部分が多い
ファミリーとの距離
家族は近すぎて問題が起こることもある
ファミリーは好きなものが共通して、会いたいときにあって、話したい時に話せる存在
だから嘘をつく必要もないし、そこでも揉め事も起こらないか起きても私生活に問題がない
このくらいの距離感の人がSNSによって作りやすくなったとも言えるし、そうでないとも言える
自分の周りでファミリー作りが上手いな、と思う人は上手くSNSを使っている
自分の好きを発信し、自分自身を発信して周りにファミリーを集めている
さらに異なる分野のファミリーがあるので、人間関係に行き詰まることもない
上手く行っていない人はSNS上で匿名の嵐に揉まれすぎた結果、メンタルを病んでいる気がする
特に若い人はそうなのかもしれない
自分は幸い、このブログのネタづくりもあるので読書や為になる人付き合いが増えた
結果、SNSやゲームから足を洗うことになった
ゲームは元々スマホアプリ1つしかやっていなかったが、今はログイン勢になっている
(ログインを切らすことが怖いのは、もやは依存なのかもしれないが)
そう考えると今は自分の成長のために時間が使えているし、そんな自分のためになる人との関係性そのものがファミリーなのかもしれない
格
野球部で学生時代を過ごしたせいか、自分も格を意識するような気がする
人にこの考え方を押し付けると問題になるが、自分は格を意識してしまう
格 には年齢は関係ない
自分が演劇を齧った際にも、年下でも自分より圧倒的に人を魅了する演技をする人がいた
その人は演劇において自分より格がある
格はその人がその芸事にどのくらい真剣に取り組んだかどうかが示される気がする
その対象はなんでも良い気がするが、積み上がるものでなければならない
最近はいかに他人の時間を奪い、自己鍛錬の時間を奪うかに主眼が置かれたビジネスが多いように感じる
他人のマーケティングに乗らず、自分自身をまーケティングしなくては他人や世界に文句を言うだけの口先人間に成り下がる
孤独は怖いか
孤独 これは減ったし増えたとも言える
電車に乗ればみんながイヤホンとスマホでネットの海で溺死している
そこだけ見れば、孤独ではない
ネットには大勢の人がいて、同じコンテンツを見ている
一方で電車内は孤立に満ちている
誰も他人に興味はないし、電車に肉体はあるが精神はない
そこでは誰もが孤立している
通勤なら良い?かもしれないが、友人との会話の最中にもスマホを見る人がいる
その瞬間、その人はその場から消える
孤独になっている
孤独 をきちんと自分に向き合うための時間に使えている人が一体どれほどいるのだろう
孤独 を飼い慣らして、自分の起爆剤にできるのは、我々の特権なのかもしれない
その1点において自分は特権階級にいるのかもしれない
最後に
孤独の時間で自分に向き合う
自分の時間を確保するために、ファミリー以外との時間は少なくしよう